歴史上の人物に学ぶ人材マネジメントPART8 前田利家 編
利家のこうした処世感を表していると語られるのが「笄斬り」と呼ばれる事件です。当時信長の家臣であった利家は、自分の笄(こうがい:髪をかきあげる道具)を盗んだとして、同じ家臣であった拾阿弥という若者を斬ってしまいます。
この事件の背景には、拾阿弥が笄を盗んだだけではなく、三角関係のもつれといった別の理由もあったとされていますが、家臣が別の家臣を切り捨てるという事件に信長は当然のごとく激怒。利家に対して出仕停止という処分を下しました。
出仕停止とは、現代でいうと会社を解雇されるようなもの。浪人同然の暮らしを余儀なくされるほど重い処分です。
これに驚いた利家は、桶狭間の戦いと森部の戦いの2回にわたり、信長に無断で出陣して敵将を倒す功績を挙げ信長の許しを請います。このようにいうと簡単に聞こえますが、一度出仕停止になったのに出陣するとは、一度解雇された会社に無給で働きにいくようなもの。さらに、戦に赴けば命までかかってくるとなれば、利家の覚悟のほどがうかがえるのではないでしょうか。こうして、勘当されてもなお忠誠を誓い奉公する姿に信長も態度を緩め、織田家に戻ることを許したといいます。
織田家を勘当されたにも関わらず利家が2度にわたって許しを請うた理由は、彼自身が信長という主君に惚れ込んでいたからだといわれています。このため、利家は決して信長を越えようとはせず、2番手以下の地位にとどまっていました。信長という天才に勝てないことをよく理解しており、自分の資質をわきまえ、そのなかでできることを全力で成し遂げようとしていたからこその処世術だといえるでしょう。
また、出仕停止になった利家が戦に出られたのは、同じく信長の家臣であった柴田勝家の助けがあったからだともいわれています。利家はのちに「人間は不遇になったとき、はじめて友情のなんたるかを知るものだ」という言葉を残しており、浪人となった自分に手を差し伸べてくれた勝家や、再度取り上げてくれた信長に感謝する気持ちを持っていました。こうしたエピソードからも、利家の忠誠心の高さがうかがえるのではないでしょうか。
- 労務・制度 更新日:2017/05/26
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