雇用情勢の「先」を読む経済統計 生活を左右する「懐具合」〜賃金指数
春闘の季節が近づいて来ると関心が高まるのが賃金です。もちろん、普段から自分の給与明細は気になるもの。ただ、世のなか全体で上がっているか下がっているかは、別の意味を持ちます。
例えば転職を考えている人は、給料が平均より高く、伸びている会社や業界に魅力を感じるでしょう。つまり企業の側から言えば、人材の獲得競争の面からも重要なのです。また、収入が増えたり減ったりすれば、個人消費に影響します。
今回は、この賃金の動向について説明しましょう。
*専門用語については最後にまとめて解説しています。
賃金に関する統計で最も重要なのは、厚生労働省が発表する毎月勤労統計です。専門家の間では、略して「まいきん」と呼ばれます。対象になるのは5人以上の事業所です。この調査では、賃金の他に労働時間なども調べていますが、それについては回を改めて説明しましょう。
この統計には速報と確報があり、おおむね毎月上旬に2カ月前の速報、下旬に確報が発表されます。例えば2020年9月の速報は11月6日、確報は11月25日に発表されました。
この統計のうち、まず注目したいのは「現金給与総額(1人平均)」です。「総額」とあるのは、基本給のほかに、残業や休日出勤の手当て、ボーナスなども含んでいるからです。また、家族手当や通勤手当などもこのなかに入ります。つまり、働く人が会社から受け取るお金の平均額だと言っていいでしょう。ただし、所得税や社会保険料などを支払う前の額なので、実際の手取りはこれより少なくなります。
現金給与総額は「27万3466円(2020年10月の速報値)」のように額でも発表されますが、データの傾向は「賃金指数」で判断します。これは、2015年の平均を100とした場合、その月がいくらになるかを示した値です。季節調整値も発表されるので前月比で見ることも可能ですが、新聞では一般に前年同月比を取り上げます。
実際の推移を見てみましょう。
新型コロナウイルス感染症が拡大した2020年3月には前年同月比ゼロ%になり、5月には同2.1%減と急激に落ち込んだことが分かります。6月以降は回復傾向に転じましたがマイナスは続いており、厳しい状況が伺えます。給与が減ると心の余裕が失われ、財布のひもが固くなりがちです。
第2回で見たように、この指標の動きは、やや遅れて個人消費に影響します。つまり、消費の先行指標と言えるのです。
業界別や残業代にも注目
ただし、業界別に見ると新型コロナ感染症拡大の影響で給与が増えたケースもあります。緊急事態宣言が出された2020年4月のデータを業界別に見てみましょう。
営業自粛に追い込まれた飲食店などで大幅に減った一方、人々の生活を維持するライフラインとして営業を続けた小売業や、リモートワークの広がりで仕事が増えた情報通信業などでは増えていることが分かります。
もう一つの注目データが残業代などの「所定外給与」です。基本給と違い仕事の忙しさによって大きく変化するため、景気の現状を反映しやすいのです。実際、グラフを見ると基本給を含む給与総額に比べ、落ち込みが大きいことが分かります。
長期的な傾向は「実質」で見る
以上のように、月ごとの変化は前年同月比の増減を見ればだいたい分かります。ただ、年単位で賃金の傾向を見る際には、注意しなければならないことがあります。
例えば、1年で給与が2倍になったとしても、物価が3倍になっていれば実際に買うことができるモノやサービスの総量はむしろ減ってしまいます。つまり、給与の額が増えただけでは本当の意味で賃金が上がって生活が豊かになったかどうかは分からないのです。
そこで登場するのが物価動向を加味した「実質賃金」という指標です。具体的には、すでに説明した現金給与総額の伸び率から物価上昇(インフレ)率を差し引きます。こうすることで、給与で買えるモノやサービスの総量が増えているか減っているかが分かるのです。
なお、こうした操作を加えない元の値は、「名目賃金」と呼びます。
過去7年間の名目賃金と実質賃金をグラフにすると違いは明らかです。実額(名目)だけ見れば、日本の賃金は2013、2019年を除いて増えています。ところが実質を見ると、逆に増えているのは2016、2018年だけです。つまり、給与明細に書かれている額は増えていても、物価の上昇を差し引くと実質的には減っている年の方が多かったのです。
私たちは給与明細を見るとき、物価の動きまで考えません。しかし、額が増えているにもかかわらず、実際に買えるモノやサービスが減ったり増えなかったりすれば、「なぜ生活が豊かにならないのだろう」と不思議に思うはずです。現在の日本は、まさにそんな状態が続いているのです。
用語解説
- 【毎月勤労統計調査】: 厚生労働省がとりまとめる、雇用や給与、労働時間などの動向を明らかにするための全国調査。常用労働者を5人以上、雇っている事業所が対象。業種別のほか、パートタイムと一般労働者など雇用形態別のデータなども発表される。
- 【物価上昇率】: インフレ率とも言う。消費者物価が前年に比べどれだけ変化したかを示す指標。インフレ率が上がると同じ額のお金で買えるモノやサービスの量が減る。このため、国民総生産(GDP)など金額で表す統計については、長期の傾向を物価変動の影響を差し引いた「実質値」で判断する。
- 【季節調整値】: 統計から、気候や年中行事などによって毎年決まった時期に起きる変化の影響を取り除く処理。(前年比ではなく)前期比の増減を計算する場合は、この季節調整値を用いる。略して「季調値」などと呼ぶこともある。
- 【先行指標】: 経済指標には、足元の状況を示す「一致指標」、変化を先取りする「先行指標」、遅れて変化し、確認などに使われる「遅行指標」の3種類がある。
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松林 薫
1973年、広島市生まれ。ジャーナリスト。京都大学経済学部卒、同大学院経済学研究科修了。1999年、日本経済新聞社入社。経済学、金融・証券、社会保障、エネルギー、財界などを担当。2014年退社し株式会社報道イノベーション研究所を設立。2019年より社会情報大学院大学客員教授。著書に『新聞の正しい読み方』(NTT出版)、『「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方』(晶文社)、『迷わず書ける記者式文章術』(慶應義塾大学出版会)。
- 経営・組織づくり 2022/01/25
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