歴史上の人物に学ぶ人材マネジメントPART7 徳川家康 編
幼い頃から苦労を続けてきた家康が日頃から心がけていたのは「部下の心をマネジメントする」ということでした。戦国時代というと、信長のようなワンマン政治や、決して上のいうことには逆らわない封建社会を思い浮かべがちですが、家康のとった政策は全く逆。家臣の要望や発言に普段から目を向け、家臣の心を細やかにフォローするというものでした。
なかでも特徴的だったのは、家臣の意見を必ず最後まで聞いたということです。例えば、家臣が何か進言した場合、トップに立つ家康がそれを無下に否定したり聞く耳を持たなかったりすると、ほかの家臣までが萎縮し自分の意見をいわなくなってしまうでしょう。それでは家臣の有益なアイデアの芽をつんでしまうことになると考えた家康は、どんなときでも家臣の言葉を最後まで聞くことを心がけていました。
三河譜代という言葉に表れているように、徳川家の家臣は先祖からずっと家臣であった忠義ものが多く、結束が強かったのが特徴。幼い頃から環境には恵まれなかったものの、よい部下が自然と集まっていたのはこうした家康のマネジメントがあったからかもしれません。
家康による組織マネジメントの集大成といえば、江戸幕府をおいてほかにはないでしょう。大阪や堺といった商業の中心だけでなく佐渡の金山のような重要拠点も押さえ、日本全国の大名を従わせる仕組みをつくった知恵はずる賢いともいえるほどです。
ここでも、家康の「部下を大切にする」というマネジメントの一端が見て取れます。関ヶ原の合戦で石田三成を撃破した家康は、前田家や島津家、伊達家といった実力者を外様大名として辺境の地におき、代わりにもともとの家臣であった譜代大名は関東近郊や京都、大坂、東海道沿いなど、戦略的に重要な土地におきました。
家臣によって差別するというと聞こえは悪く、現代の会社組織ではなかなかこういった採用活動は難しいかもしれません。しかし、現在の会社組織においても、中途採用した社員を重用する際には、その役職や待遇に一定の配慮が必要になる場面も少なくありません。関ヶ原の合戦後に部下となった大名と、もともと家臣であった大名を同列に扱っていたのでは、不満の芽がでることは目に見えているでしょう。こうした、より「腹心に近い」家臣の心を汲み取り、大切にすることで、その後の長期政権を実現する江戸幕府の礎が築かれていったのです。
- 労務・制度 更新日:2017/04/19
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